年月 | 活動内容 |
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明治10年頃 | 明治31年に結成される以前の業界は、上町地区 (豊島町) に木之元 (木元) 藤次郎氏、下町地区に富川伊八 (梅之市) 氏、逸見地区に岩井辰五郎氏らが中心となって明治10年頃より協和会を結成して、杉山三部書の勉強会を開いていた。 |
明治26年 |
横浜鍼治揉按医学講習学校 (初代校長に眼科医浅水十明氏、後に横浜盲人学校と改名) の分教所が横須賀町旭町10番地に設立され、横須賀町より年60円の助成金が交付された。
当時は免許制が無く、自由に営業していたが、近々免許制になるとの事で組合結成の必要上、本会の前身である、横須賀警察署管内鍼術灸術按摩術営業協同組合を結成した。
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明治33年 |
神奈川県知事、周布公平氏より横須賀警察署管内鍼術灸術按摩術営業協同組合として認可された。
鍼治免許鑑札、灸治免許鑑札制が施行された。当時、鍼灸を施術していた業者のみに既得権として免許鑑札を与えられた。又、按摩術にも免許制が施行されることになった。
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明治40年頃 | 市内には開業医師42名、歯科医師5名、鍼術師15名、灸術師2名、按摩術師多数がいた。 |
明治45年 | 神奈川県知事鍼術灸術営業取締規則 (内務省令第10号) 、按摩術営業取締規則 (同第11号) が施行され従来の既得権が認められた。 |
大正2年6月 | 学校は、若松町54番地に新しく組合立横須賀盲人学校として独立、本格的な教育に入った。その頃の組合の事業は専ら学校の運営に注がれた。 又、大正10年頃、佐野町にある妙栄寺に不遇な死を遂げた会員のために組合の有志により浄財を募って墓地を購入し、共和会鍼灸按摩業者の墓としてその管理に当った。 その後昭和22年、事情により墓地利用者及び会員有志に引継がれたが、昭和40年代になって利用者がいなくなったため、墓地を寺に返した。 |
大正9年 | 田浦警察署管内営業組合が本会に統合された。 |
大正12年9月 | 関東大震災により盲人学校校舎は焼失し、その再建に当時の役員は県や市に奔走した結果、県から材木50石の無償配給を受け、深田町145番地 (現横須賀共済病院敷地内) に念願の校舎を建設することが出来た。 しかし、再建は出来たものの震災後は組合の学校経営は大変苦しい時代が続いた。その頃、盲人学校は市に移管したらどうかという話がもちあがり、 当時の川島富士男市議等が市議会に働きかけた結果、大正14年8月、市に移管され、横須賀市立盲学校 (初代校長に医師会長、長岡源太郎氏) となった。 その後、昭和8年4月に安浦1-9 (現在7番地海岸薬局裏) に移転され昭和19年太平洋戦争の激化に伴い、やがて10月末日で廃校となった。 廃校となるまで組合は総会並びに役員会の会場として利用していた。 |
年月 | 活動内容 |
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昭和2年 |
県社会課の意向により神奈川県盲人福祉協会が組織され、歴代学務部長が会長、又、社会課長が副会長となり社会課職員2名が会の事務処理に当った。
県下20余組合の各組合長は支部長となり組合の仕事はすべて県福祉協会が取扱い、昭和6年、県の条例により強制組合となって開業する者は 所属の組合員とならなければ営業できない事になった。その頃は盲人が多かった関係上、県では福祉面で色々と配慮され、又、新しい勉強のための講習会等を度々開催してくれた。 |
昭和12年 |
日華事変が起こりその後、県福祉協会は他の社会事業団体とともに、県厚生団に統合されてが、事業も何も無く只事務的な仕事のみとなった。
同年10月本会創立四十周年記念式典を市盲学校で挙行した。
そのうち、太平洋戦争の激化に伴い、業務用物資が入手困難となったので県下に組合連合会結成の気運が高まり昭和17年10月県下の組合を一本化し、
神奈川県鍼灸按摩マッサージ組合連合会を結成した。初代会長に半田清氏がなった。同連合会の事業として業務用物資の配給を県に懇請するとともに、 国策に協力するため、神奈川県鍼灸按摩マッサージ銃後奉国隊が結成され横須賀は第8分隊として初代分隊長に斉藤岩吉氏、二代に谷清治郎氏がなり、 軍需工場等に業を以って勤労奉仕をしたが、これらの団体は終戦とともに解散した。 |
年月 | 活動内容 |
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昭和21年3月 |
県下を一本化した業団体の必要性を痛感し有志が集って、神奈川県鍼灸按摩マッサージ師会が結成され、
本会は同年7月16日横須賀支部となり初代支部長に、谷清次郎氏、2代に矢島與七氏がなった。 |
昭和22年 | 浦賀警察署管内営業組合が本会に統合された。 |
昭和22年9月 |
GHQの命令で鍼灸を禁止するという問題が起きた。業界はその組織並びに識者を挙げての陳情と努力によって辛うじて存続することができた。
終戦になり今までの法律である営業取締規則が昭和22年12月末日で廃止され、昭和23年1月1日より新しい身分法による現217号の法律が施行された。尚、法律の名称も、あんま師、はり師、きゅう師、柔道整復師等営業法と改められた。
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昭和23年3月 | 県師会が組織替えされ、単一師会の連盟 (名称を神奈川県鍼灸按摩マッサージ師会連盟) となった。 |
昭和23年4月 |
本会の総会においても名称を、横須賀市鍼灸按摩マッサージ師会と改め、初代会長に矢島與七氏が就任した。
この年から衛生関係の業務は保健所の所管となった。又同年、法の改正で検定試験制度の廃止によって特例による最後の検定試験が行われるため、本会では受験者のための講習会を矢島会長宅で行った。
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昭和24年 | 法の改正により、有資格者は再教育を義務づけられ、再教育講習会講師養成のための講習会が、神奈鍼連主催により行われ本会から3名 (武田嘉男、倉田栄、浅野文八郎) の受講者を派遣した。本会では旧保健所 (佐野町)を会場として、再教育のための伝達講習会を開いた。 |
昭和25年 | 逗子町が横須賀市より分離独立したため、逗子鍼灸マッサージ師会が分離。 |
昭和25年4月 | 会員の相互扶助を目的として厚生資金制度を設け現在に至っている。 |
昭和28年11月 | 創立五十五周年記念式典を佐野町の旧市福祉館において挙行した。 |
昭和32年 | 鍼灸マッサージの国民健康保険の適用を市に働きかけていたが、昭和33年より横須賀市に国民健康保険制度が設けられてマッサージが国保の適用を受けられるようになり、 本会の中に保険部を設け保険取扱い者の事務指導に当った (昭和26年より社会保険取扱い実施)。 |
昭和33年11月 | 創立六十周年記念式典を佐野町の旧市福祉館において挙行した。 |
昭和36年 | 無資格者対策の一環として会員バッチを作製するとともに、按摩師、鍼師、灸師の名簿を作成し、横須賀、田浦、浦賀、各警察署を通じて管内交番に配布し、協力方を要請した。 |
昭和37年 |
地域会員の親睦と会員の意向を会の運営に反映させる目的で市域を6班に区分し、班会制度を設けた。尚、後に4班とした。
従来は本会の主催により学術研修会を開催していたが、その内容を充実するために昭和37年度より市との共催により、研修会を開催する事となった。 尚、37年より40年までの4ヵ年にわたって開催した学術研修会の受講者には、研修会最終日に市議会本会場において市長より修了書が授与された。 この間、昭和38年、39年には市民のための講演会を下記の通り開催した。
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昭和38年 | 創立六十五周年記念式典見学研修として湯河原厚生年金整形外科病院理学療法室を見学、指導を受ける。 |
昭和42年 | 高齢者福祉の目的で高齢者の鍼灸按摩マッサージの施術割引券を発行し、横須賀市福祉事務所長の配慮で各老人クラブに配布した。 |
昭和43年11月 | 創立七十周年記念式典を横須賀市文化会館において挙行し、東京教育大学芹沢勝助教授の記念講演会を開催した。 |
昭和44年 | 七沢理学診療病院リハビリテーションセンター理学療法室の見学研修を行なった。 |
昭和45年4月 | 本会の名称を、横須賀市鍼灸按摩マッサージ指圧師会と改名した。 |
昭和46年 | 本会会員の業態調査を行い、会員台帳を作成した。 |
昭和47年 |
無資格者対策推進のため、関係当局と連絡を図りながら取締りの強化に当たるようになった。
この年より毎年1回業務研修会を開催し、経営の合理化・治療院の近代化・税務申告等の指導に当たっている。
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昭和47年10月 | 本会所有の点字図書30余冊を横須賀点字図書館に寄贈した。 |
昭和48年 | 高齢者会員に対する優遇制度の一助として、男子は70歳、女子は65歳以上から会費の減額を実施。 又、役職員が会務中に起きた事故災害に対し、見舞金給付制度を設けた。 |
昭和49年 | 未加入者の積極的加入の促進を図るため、種々の対策を講じた。 |
昭和49年4月 | 表彰規定を制定した。 |
昭和50年 | 同37年度より継続してきた市との共催による学術研修会を改め、補助金制度に変更する旨市に要望し、実施の運びとなり現在に至っている。 以来、学術研修会は本会主催となり、開催回数等内容の充実に努め、横須賀市医師会には講師の推薦等協力をお願いしている。 尚、蔵書目録を作成し、医学書、専門書及び研修会録音テープ等の貸出しを始めた。 |
昭和50年4月 | 本会顧問矢島與七氏は、永年の斯業の発展並びに保健衛生に貢献した功績により、勲六等単光旭日章を受章。 |
昭和51年4月 | 横須賀市における健保療養費の委任受領方式が採用・実施された。 これに伴い、保険部会を設置し、保険取扱い者の指導と審査に当たるようになった。 この時から鍼灸マッサージの保険取扱い件数が多くなった。 |
昭和51年 | 従来の業務部を指導部と改め、新入会員の指導育成と婦人会員の親睦と交流に務めた。尚、保険部会の設置により、保険部を廃止した。 |
昭和53年 | 創立八十周年を記念して、横須賀市文化会館において式典並びに祝賀会を挙行、 併せて、杉山検校史跡巡りや市民向け講演会を行った。 |
昭和54年 | この年より「杉山検校感謝の集い」を実施した (平成7年まで毎年総会時に行った) 。 |
昭和55年 | 「研修だより」創刊号を発行した (九号まで発行) 。 |
昭和55年11月 | 神奈川県鍼灸マッサージ師会創立 (法人化) 三十周年記念式典の席上、 本会より山田正志、神崎ますゑ、倉田 榮、倉田 沆、廣田昭義の5名が表彰を受ける。 |
昭和57年 | 「師会だより」創刊号を発行した。平成10年度末には第百号を迎える。 |
昭和60年 | 青年部を新設した。 |
昭和60年4月 | 4年に及ぶ本会の運動が実り、横須賀市において、高齢者に対するあん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう施術費助成制度が実施された。 |
昭和60年9月 | 「はり・灸・マッサージと市民の集い」を開催した。 |
昭和61年 | エイズ問題がマスコミ等で大きく報道され、本会でも「エイズについて」と「消毒法についてのお願い」のパンフレットを墨字と点字で会員に配布した。 |
昭和62年 | 初めての三師会 (横須賀・三浦・鎌倉逗葉の各師会) 合同の一泊バス旅行を行なった。 |
昭和63年 | あん摩マッサージ指圧師、はり師・きゅう師に関する法律」が大幅に改定された。 |
昭和63年10月 | 創立九十周年記念「はり・灸・マッサージと市民の集い」を開催した。 |
昭和63年11月 | 創立九十周年を記念して横須賀市文化会館において式典並びに祝賀会を開催した。 |
年月 | 活動内容 |
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平成元年 | 法律改定による厚生大臣指定講習会が開催された。 |
平成3年 | 本会において廃鍼の収集と管理を始めた。 |
平成4年4月 | 三浦市において、高齢者に対するあん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう施術費助成制度が実施された。 |
平成5年 | 横須賀市鍼灸按摩マッサージ指圧師会と三浦市鍼灸按摩マッサージ指圧師会が合併し、 本会の名称を横須賀三浦鍼灸マッサージ師会と改名した。 尚、三浦市鍼灸按摩マッサージ指圧師会は昭和23年、神奈川県鍼灸按摩マッサージ指圧師会設立に伴い 神奈川県三浦郡三崎鍼灸按摩マッサージ指圧師会 (初代会長鈴木喜八郎氏) として発足 昭和30年三浦市市制施行とともに当該名称に改名した。 |
平成6年 | 在宅ケア (訪問リハビリマッサージ) について検討を始めるとともに「家庭でできるリハビリテーション」の研修会を行った。 |
平成6年4月 | 永年の功績により廣田義昭氏が本会初の名誉会長に推挙され就任した。 |
平成7年 | 青年部を青年女性部と改名した。この年より年4回開催される学術研修会の内1回を一般市民に公開し現在に至る。 |
平成7年4月 | 本会顧問倉田榮氏は、永年の斯業の発展並びに保健衛生に貢献した功績により黄綬褒章を受章した。 |
平成7年6月 | 在宅治療部会が発足した。 |
平成8年 | 研究グループ、中医学研究会が発足した。 |
平成10年4月 | 三浦市における健保療養費の委任受領方式が採用・実施された。 |
平成10年11月5日 | 創立百周年記念日。 |
平成10年11月8日 | 創立百周年記念式典並びに祝賀会を横須賀プリンスホテルにおいて開催。 |